米鶴の歴史

米鶴の歴史

米鶴の歴史

元禄末期の1697年、
初代 梅津伊兵衛が始めた酒づくり。

初代梅津伊兵衛は徳川5代将軍綱吉の時代、元禄末期の1697年、この地で酒づくりを開始しました。
清麗な水と肥沃な耕土に恵まれた環境下、大きな夢と熱意を持って取り組んだのです。
大昭5年に記された「山形県酒造家名鑑 東北の醸造社」によって、かつての様子を伺うことができます。

当時屋代郷(高畠、屋代、和田、亀岡、上郷、二井宿の各市町村を云う)における
酒造業者は三十二戸ありて梅津家はその行司として
常に酒造界のため率先指導して一般斯業者に裨益するあり

地主でもあった当家の代々当主は、地域貢献に惜しみない力を傾注。
また、4代目から分家して油屋を営み成功した梅津栄助も、領内開発などで大きな功績を残しています。
こうして当家は、古くから屋代郷の指導的役割を担ってまいりました。

もちろん本業の酒造りでも、蔵が醸し出す酒の評判も高く、
江戸末期には、米沢藩15万石を治める上杉家の御用酒蔵として繁栄を極めました。
以降も当蔵は一貫して質実健全な経営を掟とし、一丸となって良い酒づくりに遭進してきました。

常に先を見て、
地域と酒造界を牽引した9代目。

明治中ば以降、地方酒造界の改善の旗振り役を務め、米鶴の銘柄を誕生させるなど、
社史に大きな足跡を記したのが、明治8年(1875)生まれの9代目梅津伊兵衛です。

若い頃から村会議員などを務めた9代目は、後に村長の要職にも就き、地域のために奔走。
またその一方で山形県の醸造品評会の審査員にも選ばれ、
地元酒蔵界の指針者として大きな功績を残しています。

醸造は、麹菌や酵母といった生き物の働きが必要なため、
天候に左右される上、蔵内の環境整備が特に重要です。
しかし現代のような設備がなく、経験と勘に頼るかつての方法では
腐造による失敗も多々あったようで、それが大きな悩みでした。

しかし進取の気性に富む9代目は、
当時としては画期的な、酒造りに科学的根拠を取り入れることに着目。

息子である10代目を大阪高等工業学校(現:大阪大学工学部)に送って醸造学を学ばせ、
理論に基づいた酒づくりに着手したのです。
結果、その後酒質が大きく向上ことはいうまでもありません。

また当時では斬新な名入れコップなどの宣伝を仕掛け、
冷用酒開発、抽選付き販売など先進的な試みを次々に実施。
一人前の蔵としての証でもある、石高千石(一升瓶で10万本)までに成長させ、
「米鶴」の銘柄を誕生させたのも9代目です。

「米」と「鶴」と、誰もが手を打つ縁起の良い美味しい酒として、
新たな一歩を踏み出す転機をもたらした当主でした。

いい酒にこだわり続ける、
逆境でも蔵元魂を貫く10代目。

米鶴は明治40年(1907)の第1回全国酒類品評会で3等賞を受賞したのを皮切りに、
奥羽総合清酒品評会など様々な品評会で賞を獲得し、上位入賞の常連となっていました。

ところが昭和初期の世界恐慌で酒量消費が年々減退、酒造界は倒産が相次ぐ大不況に陥ってしまったのです。
当時は現在と違い、売れる売れないに関わらず、造った酒量い対して課せられる造石税だったため、
不況下で税金が払えない蔵元が続出。

内容の良い蔵は石高を減らしてしのぐ…というような時代に当主を受け継いだ10代目伊兵衛は、
借金をしながらも必死で酒を造り続けましたが、昭和11年(1936)当時、
生産高は500石程度まで下がっていました。

翌年、酒類統制によって酒蔵の大規模な統廃合が行われ、国は莫大な補償金をもってこれを推進。
提示金額は石高に比例していたため、大きな蔵ほど廃業を選ぶケースが多かったとか。
10代目は悩みました。しかし酒造りの情熱に勝るものは無く、単独で残る道を選んだのです。

当蔵はそれまで生産を維持してきたために原料米の割り当てを受け、
醸造権も獲得しますが、その後も戦時下では原料米の不足がさらに深刻化。
そんな中、10代目は自分達の食い扶持まで原料米に回し、まさに命がけで「いい酒」を追求。

先祖が築いてきた身代を手放す状況になっても酒造りに挺身した結果、
「米鶴」は絶大なる信用銘柄としての確かな地位を築くことになったのです。
そんな10代目に対してある人が詠んだ川柳があります。

「酒屋して 財産なくす 酒造り馬鹿」。

装飾

吟醸酒ブームの火付け役、
11代目の試練と栄誉。

昭和30年(1955)、10代目の惜しむべき早逝を受け、大学を出たばかりの11代目が23歳で後を継ぎました。

先代からの引き継ぎがないまま蔵に入った11代目にとって、最初の数年間は伝統の「米鶴」を追い求めての、
まさに試行錯誤の連続。それでも自分を信じ前進し続けて5年後の春、ようやく全国品評会で金賞を受賞し、
直後には地方でも金賞や銀賞を受賞するまでになりました。

さらに、11代目が醸す酒は昭和43年(1968)、
東京農業大学による全国調味食品品評会において、山形県初のダイヤモンド賞に輝きました。

これを機に、鑑評会出品酒をそのまま世に出そうと、翌年から吟醸酒「米鶴F-1」を発売。
これこそが、現代につながる吟醸酒ブームの先がけとなったのです。

300年来のこだわりの酒づくりは平成19年(2007)、
新たに社長就任した12代目によって受け継がれております。

目指すのは、「さわやかさ」があって「香り、味、切れ」が高い次元でバランスのとれている酒。
蔵の伝統や経験、そして常に先進の技術を融合させながら、米鶴はさらなる高みに向けて飛び続けています。